昭和47年11月24日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられる様になった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言う事に叛かぬ様、良く守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うに及ばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 成程、金光大神あって、天地金乃神様のおかげを、私共が受けられる様になったと同時に、天地の親神様も、金光大神あられて、初めて世に出たのであると。居られた、居られたけれども、それを知らなかったという事でしょう。金光大神の出現によって、いうならば、生まれなさった様な神様ですよね。実は前々から居られる神ですけれども。天地金乃神様からも私共氏子からも、金光大神様がやはり恩人であると。
 だから金光大神の言うこ事そむかぬ様に、良く守って信心せよと。金光大神が教えておられる事は、見やすい事で難しい事は仰ってはいない。けれども実際に取り組んで見ると、また大変難しい事もある。けどもその気になれば誰でも出来る事である。昨日阿倍野の教話集を読ませて頂いておりましたら、ある難産のお届けがあった。親を助ける為にはどうでも、子供を切開して出さなければいけない。
 だから子供は仕方が無いから、犠牲にしなければならんけれども、母体の方が大事だと云う様な事であった。その事をお願いに来ておる信者に、伊藤先生が仰ってる事は、教祖様は幸運は自分の力で生むと思うな、みな神の恵む所ぞと教えておられるのだから、自分の力で生もうと思うたら、おかげになりませんけれども、ね。皆神の親神様の恵む所ぞと。神様に恵まれるのだと。
 だから子供もやはり恵まれておるのであり、生む事もまた恵まれて生むのであるから、神様にお縋りをして行かれたら、子供をいわばお腹の中の子を犠牲にする事は要りません。そういう場合ですね、御教えの中にみな神の恵む所と。だから子供も恵まれておるならば、また生む事もね。自分で生むと思うなと。自分で力みは要らんと。所謂教祖様の御教え。けども先生はあぁ仰るけれども万一の時には、どうなるだろうかと思うから、中々出来ませんよね。ここでもそういう例はいくらもありますね。
 今神戸に行ってる、あの和田洋子さんなんかがそうでしたよ。小野先生の所に入院しておった。いわゆる切開手術しなければならん。だからそげなこつ言うごたるなら、もう帰ってきなさいち私が言うた。ね。そして本当に帰ってきた。おかげで安産のおかげを頂いた、ね。それを例えば親先生がおっしゃる事。そのまま金光大神が言われる事。もちろん親先生は、金光大神の、そうしたはっきりした御教えがあるから、それを信じてそう言うておられるだけの事。
 自分で生むと思うなと、ね。そこん所に半信半疑である所に、言うならば切開手術もしなければならんのであり、または中の親を助け母体を保つ為に、子供を犠牲にしなければならない様な事になるのであって、ね。金光大神の言うことに叛かぬ様に、そこは頂いたら、もう絶対のおかげを受けられるのである。だからそのそういう例えば、あの言われる通りにする事ですから、見やすい事じゃないけれども。
 そういう場合になると、やはりその、金光大神であり、また親先生の信心を信じておらなければ、出来る事じゃないですね。ね。金光大神は決して難しい事は、決して仰ってない。ね。一生逆立ちしとかにゃならんとか、そういう宗教があるんですよやはりね。断食しなけりゃいけんとか、ね。いわゆる酒は飲んではいけないとか、生臭きは食べてはいけないとかと、言う様な事は仰っておらない。
 こちらがその気になれば、誰でも出来れる御教えばっかりである。けれどもたまにはです、例えば今日の所の御理解は、ね。まさかの時にはと言う様な言葉が出て来ておるですけれどその、まさかの時にです。金光大神を信ずるという信心が、日頃頂けとかねばならないかという事が分かりますよね。金光大神のいわれる事に叛かぬ様に、日頃が信心が出来となかればならない。
 まさかの折には、天地金乃神に言うには及ばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授ける。そのまさかの時が大事である。本当にまさかの時には神様はもう、忘れてしもうとるという人が多い。ね。例えば腹を立てると云う様な事でもそうです。こりゃまぁ言うなら、まさかのうちに入る訳です。ね。そういう時に、生神金光大神様と、お縋りする余裕があれば、例えば腹は立ってもそれを抑える事が出来る。はぁおかげで言わんで済んで良かった。いうならば叩かんで済んで良かったと云う事になるのです。
 けれどももう言うてしもうて、叩いてしもうたらしもうた。まさかの時に金光大神が出てきて御座らん。私はまさかの時に、金光大神が出て来る。どんな場合であっても、金光大神がそこへ出て来る。いわゆる唱えられる、信心の稽古をしっかりしとかにゃいけんとね。でそこから、成程おかげが受けられる事を体験させてもらっておるからこそ、今度は本当の意味でのまさかの時、言うなら咄嗟の時ね。
 例えば自動車事故なんかに、その合うその瞬間です。金光様と、金光様を唱えられるだけの物を頂いとかなきゃならん。まさかの折には天地金乃神と言うに及ばぬとこう言うておられますけれども、そのもう金光大神を唱える時には、もうすでに天地の神様も、その中にもう入って御座るのです。ね。まぁここでは皆さんがあの、親先生とこう親先生を唱える時にはもうすでに、金光大神を唱えておる事であると同時に、天地金乃神様を唱えておる事と同じ事なんです。ね。
 その親先生がいわばまさかの時に出て来れば、おかげである。そのために私共が常に、金光大神の教えて下さる事、金光大神の言う事に叛かぬ様に、よく守って信心をしておかなければならぬ。いよいよのいうなら人間の技では、どうにも出来ないと言った様な時に、金光大神の教えを頂いて、金光大神の言われる事に、叛かぬ様に信心をさせてもらう。けれどもその常日頃の平生の時の信心が、金光大神の言う事を、疎かにしておる。言うならもっともっと見やすい金光大神の言われる事を、疎かにしておる。ね。
 その事が実を言うたら大事である。いわゆる常日頃本当の信心が出来にゃいけん。信心生活が出来にゃいけん。金光大神の言われる事、御教えに基づいての生活が出来なければいけない。阿倍野の先生の話しておられる、あの教話を読ませて頂きますと。金光大神の言う事に、叛かぬ様に、良く守って信心せよというこの辺の所が、もう実に見事に出来ておる。実に見事に金光大神の言われる事を、ご信者さん方に徹底させておられる。その所が大事だと思うです。
 それで是はそういうお取次ぎさせて頂く者の徳も力が、やっぱそこに必要であるですけれども、その、それを頂く方の側もです、ね。それをほんなら頂く事は、大変見やすいのですけれども、それを実行しようとしない。例えば毎日参って来なさいよと言った様な事でも、もう本当に毎日参って来ておる。それが必ず一回じゃないですよ。二回でも三回でも参って来て良いですよと言うと、やっぱり朝、昼、晩参って来ておる。ね。一人ではどうにも出来んのですから、ね。
家族の人達に勢を揃えて信心する様に言いなさいと言うたら、それを言うて実行させておられる。そしてそこに生まれて来ておるおかげと云う物は、もう本当に本当なこっじゃあるじゃろかと言う様なおかげを頂いておられる。ね。いうならばまさかの折には、天地金乃神と言った様な、そのまさかの時ではなくて常日頃にです。もう実に見事に金光大神の言う事に、いわゆる親先生の言う事にそむかぬ様に。親先生が仰ったからと言う事を、信者が行じておる。
 ですからあの合楽の場合には、この辺の所が欠けておるという事を、まぁ痛感するですけど。このくらいな事はと言う様な、あれがあるのじゃないでしょうか。ね。このくらいな事はと言うような所を、お互いが疎かにしておる様であります。お話の中にあそこではマルショウ、子供会と言う沢山参って来る。近所から参って来るその子供が、家が大変難儀である。それで子供ながらもお参りをして、とにかくあの勢を揃えた信心をせにゃいけん。そうすりゃおかげが頂かれるという話を聞いて。
 それを帰ってお父さんとお母さんに話しておる。そこでその話を聞いて、成程とお母さんが思うて、お母さんが参って来ておる。それから次にはまたお父さんが参って来ておる。そのお父さんと言うのは、参って来た時には、あの何ていうですかね、どてら着で参って来た。大体はその世の中を短刀一本で過ごして行くと云う様人。いわゆるそのまぁ短刀一本でという事は、言うならば遊び手という事、ね。それも良い遊び手じゃなくて、まぁ色々因縁を付けたりなんかしてからその、生活をしておる。
 もう正月だというのに、お餅も付ないと言った様な状態。ね。そのお父さんが参って来ておる。ね。そして先生の話を聞いて「大体は、本職は何か」と。本職はそのブリキ屋さんである。ブリキ細工をするトタン細工をする。そこでまぁ懇々と仕事をする事。遊んで食べると言った様な子おが、如何に神様のお心に叶わん事かと。働かなければいけない事を教えられてそのブリキ屋さん。
所が何にも資本が無い。そこであのブリキで作ったこうあのちり取りですかね。ちり取りをあの作らせて、そして教会に一つ買いそれを買っておられる。そしてそれを元手に次々と、その言うならば仕事は無いか、仕事は無いかと言う注文取りに回らせておられる。もういうなら先生の言われる通りの、その事をしておられる。ね。それから段々おかげを頂く様になった。
 ある日長いものを、こう風呂敷に包んで、お供えに持ってきた。でそれを神様にお供えされて、風呂敷を開けて見た所が白鞘の短刀だった。この短刀一本で生活しておったけれども、そのそれを神様にお供えをして、そしてそのブリキ屋さんで、段々立ち行く様になったという話がありますけれども。もう本当に見事に先生の言う通りの事をしておる、ね。親子三人が、勢を揃えてお参りをする。
 先生が言われる事は、もうどんな些細な事でも、それを実行するね。そしてそこからいわば、立ち上がっておかげを頂いておると云う様にです。なかなかそう云う事はですね、言う事を聞かせもきらんが、言う事を聞かない。ね。そういう私は信心させて頂いて、おかげを受けて、初めて金光大神の言われる事に、そむかぬ様に良く守って信心生活をせよと言う事になり。ね。
 そういう信心が出来ておって、初めてまさかの時に、金光大神を唱えるおかげが頂かれる。もういうならば寝ても覚めても、自分の心の中に金光様がある。だからまさかの時に、金光様が出て来るのである。ね。まさかの時だけいかにもまさかの時には、金光大神といや如何にも便利のごとある。けれどもいよいよまさかの時には、もうすでに金光様が出ていない忘れられておる。そして言うてしもうたり叩いてしもうたりした後になっておったり、いや突発的に起こったまさかの時にでもです。
 本当に日頃あげん金光様と思うとるごたるけれども、教えを頂いておる様であるけれども、金光様が出ていないという、ね。是は例えばあの例え、金光様という事ではなくても良いですよ。ね。例えば突発的な時に私は一遍、善導寺にお参りさせて頂きよる時に、あの亀口おこしのある所の、橋の上で子供がこんな大きなバラスを、ボーンと投げたのが、頭に当たったです。もうそらもう本当に、目が真っ黒なる様な思いでした。
 金光様はでなかったけれども「すみません」ち言うのが一番口でした。もう子供はびっくりして、泣いて、家に何処さんか帰って行ってしまった。けれどもそういう時にですね。とても信心させて頂いておって、そういう事が起こって来ると言う事は、やはりもう咄嗟にですね。私の心の中に神様から叩かれた。神様に叩かれたという実感ですよ。ですからそれこそ目のとこから火が出るとは、あの事じゃろと思う。ね。そん時に一番口でたのは「すみません」と言う言葉である。
 だから金光様と言う事も、その中には入っている訳なんですからね。必ずしも金光様だから、親先生でも良い事になる訳です。ね。あぁ痛よどこん奴かち言うたらもう、おしまいなんです。ね。叩かれて「あぁ痛よ」ち言うたらもう、すでにそれはまさかの時に、金光大神を唱えた事にならん。ね。まさかの折には本当に、金光大神を唱えさせてもらえれる、おかげを頂かせてもらわなければならない。
 でそれを頂かせて頂く為にです、なら常日頃、金光大神の言う事に、叛かぬ様にと言う所を大事にしなければならない。ね。其処ん所を例えばほんなら、親先生が言われたから、その事を本気で実行するという事。是はだから一つも難しい事ではない。その難しくない事を私共は、本気に取り組ませてもらう。ね。そこから、私は、おかげの受けられる道。金光大神の言われる事を、見やすい事を行じて行く所にです。
 昨日、末永先生がお話しておりました様にです、ね。信心を頂いておる値打ちと言うのはそれである。常日頃の中に神様がです、ね。金光大神の言う事に叛かぬ様に、良く守って信心をせよと。常日頃に金光大神の教えて下さる事を、守っておる所からです成程、金光様のご信者は違う。ね。成程金光様の御教えは、有難いとじゃろと、例えば信心の無い者でも思うことになる。
 日頃の事を疎かにしておる所から、信心しよってあげな横着な事で良いだろうかと。信心してあげな事で良いかと、云う様な事に言われたりあったりする訳でありますね。いわゆる、信心を頂いておる者の、値打ちと云う物が、常日頃の些細な事の中からでも、それが出来て来るね。そういう姿がいわば金光大神の信心を頂いておる、信心の姿になるのですからね。誰が見ても合点が行くのですね。いわゆる金光様の信心を頂いておる、いよいよ値打ちと言う物がです、発揮出来るのです。
 そういう信心を、日頃に身に付けておって初めてまさかの折に、金光大神が出るのであり、親先生が出るのでありまたはそれが「すみません」が、咄嗟に出て来るのである。ね。そういう信心を此処では、教えておられると思うのです。これは一つの説明とでも申しますか。金光大神は天地金乃神様からも、恩人であると同時に、ね。信者氏子である所の、私達からもやはり金光大神は恩人である。
 その恩人の言われる事を聞くという事。ね。それは話を聞くというのではなくて、いわゆる、親の言う事を聞くという意味においての聞く。どんな些細な事でも、親の言う子おを「はい、はい」と言うて言う事を聞くという聞く。ね。そこからです、私は本当のおかげが頂けるなという事を、阿倍野の先生のお話を聞かせて頂いて、実感させて頂いておるのです。ね。しかもそういう信心が、日頃出来ておってです。
 初めてまさかの時に、金光大神が出て来るのでありまさかの時に、親先生が出て来るのであり、まさかの時に「すみません」と言うのが、咄嗟に出て来るおかげが頂かれると思うのです。ね。どうぞ金光大神の言う事に叛かぬ様に、という事は、金光大神の言う事を聞くという事。ね。その、金光大神の言う事を聞くという事。是は親のいう事を聞くと言うそれなんです。家の子供はよう言う事を聞くと言う。
 合楽の方たちの場合には、ね。そら、親先生の話を良く聞くという事は、ただ、耳で聴いておるというだけである。この聴くではなくて、言う事を聞かせてもらう、常日頃。ね。そこから、私はおかげが頂かれると同時にです、阿倍野の先生は、其処ん所をね。神様の御神徳、ご信用を受けるのは、ね。教祖金光様の御教えを、ね。聞く以外には無いと言うておられます。
 成程親の言う事を、どんな些細な事でも言う事を聞くなら、親の信用が出来るはずですよ。ね。それはどんなに素晴らしい事を、時々言うたりしたりしてもです。ね。常日頃は、言う事を聞かんなら、それで親の信用が付くはずはありません。いわゆる親の信用と言うのは、神様の御神徳が受けられるはずがありません。常日頃を大事にして、親の言う事を聞く信心をさせてもらわなきゃならんと思いますね。
   どうぞ。